会長辞任のご挨拶
国病久原会をふりかえる
国病久原会 名誉会長 廣田典祥
私は国病久原会会長を退任するにあたり、様々な思いを整理して考えてみました。独り合点な思いがあるかも知れませんが、ご批判頂ければ幸いです。
(会長役を振り返ると)
20数年ほど前、当時の長崎医療センター院長、米倉正大先生から私に国病久原会会長を引き受けてくれと要請されたとき、正直、迷いました。当初、自分にはなんのメリットもない、定年後の人生を忙しくするばかりで、一体何の意味があるのだろうか、という気持ちが燻っていました。
あれから、20年後の今、会長役を振り返ると、こういう機会を与えて貰ったのは何かの縁があったということでしょう。決して無駄では無かった。今ふりかえると、国病久原会の伝統をいくらかは支えることができた、という充足感、達成感を得たような気がしており、むしろ感謝の念を抱いております。
(国病久原会の特徴について)
ここで、国病久原会とは、一見、分かりづらいようです。それで、少し具体的に述べて皆様のご理解を得たいと思います。
まず、会の趣旨(会員相互の旧交を温め、本院職員との親睦を図る)から説明してみます。
要するに、恒例として毎年夏に、本会の役員会が持たれてきました。そこでは国病久原会の方針とか総会議事の件などについて、大凡話し合いました。それに基づき、総会が2年に一回開催され、医師、看護師、事務職、薬剤師、放射線技師、・・・・等、あらゆる職種を越えた新旧の職員が一緒に会し、物故者への黙祷、決算や総会議事の承認、総会記念講演、懇親会に臨みます。懇親会は最近では、本院の10階レストランで開催されてきました。ここでは、一堂に会して、わいわい、がやがや、おしゃべりしたり、酒を酌み交わしたり、楽しい時間を過ごすという交流(旧交を温め、親睦を図る)の場をとなるわけです。よって、お互い職種が異なるので、ヨコの関係、つまり組織横断的な特徴を含んでいます。
そればかりではありません、本院に勤務していた年代がそれぞれ異なるので、古老も新参者も含むので、先輩と後輩が一緒になる、タテの関係、つまり組織縦断的とも言えます。
同じ屋根の下で過ごした、言ってみてば、同じ高校とか大学の、同窓会総会のようなものです。それでは、OBのみの集合かというと、それとも異なる。OBと本院職員が交流するという特徴ももっています。即ち、現役の職員も参加する、ということです。OB全員が久原会会員かというと、それも違います。OBでも、入会しないと久原会会員ではないのです。入会はできれば長崎医療センターを離職されるときに、退職ではなくとも、転職のときでも、要するに一度は長崎医療センターの所属したことのある職員なら、臨時職員の方でも、研修教育を受けた医師さえも、本会の趣旨に賛同され、本院の管理課に申し出れば入会できます。OB会員の資格として会費の納入が欠かせません。それに従って名簿が作成され、関係者のみに配布(個人情報に配慮して)されます。
<この章のまとめ>
(1)本会の趣旨:会員相互の旧交を温め、又本院職員との親睦を図ること、即ち、OBと現役が交流する場でもあること
(2)主に、役員会(毎年夏頃)、2年毎に総会が開催されてきたこと
(3)会員は各職種よりなる組織横断的な、かつ新旧の職員よりなる組織縦断的な構成(臨時職員を含む)となっていること、即ち、立場を超えて一体感を育む場となっていること
(4)OB会員の要件として会費納入の義務(会費は年1000円)があります。現役は総会参加費のみ。
(年々歳々、会の様子が変化して来た)
本会の沿革をふりかえると、故寺本成美院長時代、昭和61年(1986年)11月、大村市農協会館で第1回が開催され、発足しました。その時は、顧問:寺本成美、会長:村島二郎。参加者はOB136名、現職85名(合計221名)でした。発足から現在までに38年を経ています。
発足当初は院長の大号令もあり、物珍しさもあってか、参加者がよく集まったものです。だがその後は、総会の参加者が、次第に減少し、令和5年11月の第19回では合計で69名となっています。本院職員数の増加や業務の多忙化などの様々な要因が重なってか、会の魅力が薄れてきたのでしょうか。最近ではコロナ禍も加わり、総会開催を延期せざるをえず、多数の者が一堂に会合することが困難な時期もありました。
参加者の減少傾向を食い止める、会を魅了的な場へと会員を誘うためにはどうしたら良いのでしょうか?
<この章のまとめ>
年々総会参加者並びに新規入会者が減少傾向にある。会員へ誘うためにはどうしたら良いだろうか?
(まず、会の「見える化)を進めた」
従来、会報の発行によるPRが欠いていたために、思うような会の存在意義が浸透していませんでした。私が会長になって間もなく、デジタル化の時代が到来しましたので、病院のホームページの一隅を頂けるようになりました。これで会報誌の代替手段と考えて、本会の役員会で了承をいただき、「国病久原会」コーナーを設けました。
ホームページ開設後まもなくして、当院の名誉院長である江崎宏典先生の企画による「千燈照院」というSENSAI(平成28年11月号)の特別企画で「国病久原会の未来を拓く」というテーマで江崎先生と会長の小生で対談したことがありました。このような対談を通じて、会の存在を広く浸透する機会を設けて頂いたと思います。会長のわたくしは「どのようにして会を牽引してゆけばよいのか、どうしたら未来への展望を拓くことができるのか模索中です。しかし当院へ何らかの形で貢献できるのではないかという予感もあります」と答えました。
このように国病久原会の存在をもっともっと分かりやすいようにするにはどうしたら良いのか?それを打開するため、会をもっと「見える化」、「OBが病院行事に積極的に参加すること」を考えました。
「見える化」はホームページ利用で、ある程度実現できたように思います。本会の存在をいくらかPRできるようになったと思います。
それで、新しくOB連絡会(出口八重子、浦部豊、森内昭子、吉田典子の皆様のご協力を得ました)を、作り、メンバーで手分けして、院内に眠っていた資料を探し出し、不完全ながら当会の沿革をまとめました。
「OBが病院行事に積極的に参加すること」をOB連絡会で模索しましたが、さまざまな事情で成果を上げることができておりません。これは今後の課題かと思います。
まず、「見える化」について、国病久原会のホームページ訪ねてみてください。すると、
会則、沿革、役員名簿・・・総会・総会記念講演 原稿募集 特別記事「この人に聞く」、会員の声
の欄が要領よくレンガ積みのブロックで示しております。これも、当院の管理課内にある国病久原会事務局のご尽力のお陰で体裁良く「見える化」にしていただいたからです。ブロックをクリックして頂けると、履歴や詳細が読み取れるようになっています。
このように「見える化」はある程度、実現しました。だが、国病久原会会員として、何らかの参加となると、不十分と言わざるを得ません。見えるだけでなく、「参加しよう」という行動の変容を期待しています。
<この章のまとめ>
もともと、会報誌がない団体だったので、当会の存在がよく知られていなかった。それを補うために、病院のホームページの一角に国病久原会のコーナーを設けて「見える化」を実現した。
(国病久原会の未来を拓く)
本会会員は各職種の混合になっており、言ってみれば、医師中心の会合ではありません。あくまでも、会員が主体の集まりです。このことは大きな意味を持っております。医療の現場を構成する多職種がそのまま会員となっているのです。よって職域の壁を取り払い、お互いに会話したり、団欒したり、お酒を酌み交わしたり、年齢の違いを超えて、親睦交流をおこなうスペースです。つまり、多職種をこえた憩いの場ということです。専門的な内容の討議の場でもありません。そこで交わされる会話の内容は、近況報告的なものや、古き良き時代の想い出話が交わされるでしょう。お互いに言葉を交わすことで、自然に、相手の立場や考え方に共感したり、相手の考えを自分のものとして取り入れたりします。いつしか、自分の内省力を働かせて「なるほど、そういう考え方もあるのか」と共感することもあるでしょう。また、他の職種の方々が毎日どんな想いで職場に臨んでいるのかを肌で感じることができるかもしれません。このような体験はいつしか医療人としてのみならず、社会人としての人格の涵養に資することになる筈です。
話が変わりますが、当センターはいち早く、離島医療の支援に取り組んできました。離島医療とは、日本の未来の医療の縮図かも知れないのです。同時にヘリコプターによる患者搬送に取り組んだ歴史があります。臨床研修医教育でもプライマリ・ケアを重視したスーパーローテート方式を取り入れてきました。臨床研究部ではB型肝炎の予防にエポックメーキングともいえるワクチンの開発で成果をあげました。脳死患者からのドナー臓器移植も着手されました。このように先進的、先駆的医療を貪欲に追求して来ました。こうした先輩たちが残した「医療の知」はどこかに脈々と引き継がれている筈です。若い世代の人たちは、古い世代の語る内容に実に豊富な「医療の知」を読み取って欲しいものです。
国病久原会のホームページには、こうした先輩たちの足跡をある程度、示してきました。「総会特別講演」、「この人に聞く」欄等に、そこには多くの先輩が残した一種のレガシーとしての、遺訓・教訓が文字の間に散りばめられています。「会員の声」にも、どしどし投稿を期待して、文章による交流を活発化して欲しいのです。「声」と「声」が重なれば、いつしかお互いの絆も深くなることでしょう。
俯瞰的に考えてみると、いつしか国病久原会の記事は一種の多職種間教育(IPE)の延長線の上にあるのではないかと思いました。このような多職種間交流に欠かせない知恵が述べられていることに。未来を拓く鍵がそこにあるような気がいたします。
<この章のまとめ>
俯瞰的に考えてみると、国病久原会の記事は一種の多職種間教育(IPE)の延長線の上にあるのではないかと思う。国病久原会の未来を拓くには、そこに鍵があるのではないかという気がする。
(本会の存在理由:本院の伝統を支えること)
さて、国病久原会のホームページ作りを開始したのは、平成27年(2015)6月からです。最初に着手したのが、「この人に聞く」欄にNPO法人卒後臨床研修評価機構専務理事岩﨑 榮先生と会長の私(廣田)との対談記事でした。これが何と令和6年(2024)になって、4月27日、当院名誉院長八橋 弘先生が第40回臨床研修研究会の幹事を務められた、故 岩﨑 榮先生の追悼講演に取り上げて頂いたのです。よもや、この記事が10年近くも経って、医学教育関連の臨床研修研究会のシンポジウムに役立ててもらうとは、予想もしていませんでした。
八橋 弘先生(長崎県病院企業団企業長)から:改めて「書き残された文章とメッセージは時を超えて伝わり、引き継がれてゆく」と思った次第です(八橋 弘 書簡より)。
というご報告を頂戴いたしました。
このお手紙はまさに、当院が築いてきた伝統(医療文化)を次世代の会員が活かした好例だと思いました。こうして知らず知らずに国病久原会会員が当院の伝統の担い手にもなってきたことを誇らしく思えてなりません。国病久原会の記事は、時を超えて読む人へ何らかのメッセージを伝え続けてゆく、つまり当院のレガシー(遺産)や伝統を守っていくこと、そうゆうことが、当会の存在理由の一つになっていると思うのです。
<この章のまとめ>
書き残された文章・メッセージは時を超えて引き継がれてゆくことを意識すること、つまり本院の伝統を守ることが、当会の存在理由の一つである。
(終わりに)
私の知る限り、国病久原会のような組織は、他の医療機関には、あまりないのではないかと思います。当会はOBと現職が、雑多なようでも、どこか一体となった懇親・親睦のための会ですが、並行して当院の伝統を意識しながら、更に未来を拓く国立病院であってほしいという共通の願いが根底に流れている、そういう意味でユニークな親睦団体ではないかというのが、私の感想です。こうしたインフォーマルな、立場をこえたコミュニケーションが組織を活性化させることに繋がると思っております。
国病久原会会長を辞任するにあたり
国病久原会 名誉会長 廣田典祥
本日新会長さんのご挨拶の前に、中原副会長さんのご配慮をいただき、退任挨拶の機会を頂き誠に有難うございます。これまでに会長をしておりました廣田典祥でございます。
八橋院長先生、並びに国病久原会名誉顧問矢野先生、江﨑先生、他役員の方々、本日お集まりの皆様、今日は、こうして久しぶりに久原会総会を再開出来たことは、皆様も同様な思いでしょう、感慨ぶかいものがあります。
過去3年余続いたコロナパンデミックのもと、社会全体さまざまな変化を受けて参りました。私など、基礎疾患があり、しかも超高齢ですので目に見えないコロナに怯える毎日を過ごしました。おかげでこうして皆様に再会できる幸せを噛み締めております。正直なところ、生き続けることができて良かったという思いです。当院でもコロナに対する医療に従事して来られた皆様のご尽力に対し心から敬意を表します。
ところで私の会長歴は、平成16年頃、米倉先生が院長になられて間もなく就任依頼を受けました。だからざっと20年間ではないかとおもいます。その間、前院長江崎先生の時代に国病久原会のホームページ開設の機会を与えていただきました。その意図は、当会の存在を見える化といいますか、新旧職員間の親睦交流という足跡が残るように工夫したつもりです。
その甲斐があってか、現院長さんが院長就任まもなく、「昔の諸先輩が何を考え、どうやって病院を動かしてきたのか、OB達が残してくれた、久原会が編集した記録を読んで参考にしています」と言われました。これは大変嬉しい言葉です。国病久原会は単に新旧職員の親睦交流というだけでなく、時間を超えて、お互いの繋がりという、意味のある存在理由があるのだと思いました。これは当院の伝統をまもる医療文化の一つとも言えるでしょう。
新会長を米倉正人先生にバトンタッチいたします。先生は瑞宝中綬章の叙勲に浴され、本日は皇居にて天皇のお言葉を受けられたと思います。誠におめでとうございます。先生は当院研修医から、院長にまで栄達され、一貫して当院の発展に尽くして来られた方です。新会長さんとともに、皆様のご協力を得て、ますます当会の発展を期待いたします。併せてまた皆様のご多幸を祈念し、わたくしの退任の挨拶とさせていただきます。
末尾ではありますが、先日、OBである岩﨑 榮先生がご逝去されました、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。追悼のため、有志の方々とともに弔意を別に述べる機会を与えてください。
最後に、これまで国病久原会のOB連絡会で私を支えて頂いた前副会長の出口八重子様、その他、浦部 豊さん、森内昭子さん、吉田典子さん、それに当会の運営にご尽力されている当院管理長増田 賢武様及び国病久原会事務局の皆様に感謝いたしております。
本日新会長さんのご挨拶の前に、中原副会長さんのご配慮をいただき、退任挨拶の機会を頂き誠に有難うございます。これまでに会長をしておりました廣田典祥でございます。
八橋院長先生、並びに国病久原会名誉顧問矢野先生、江﨑先生、他役員の方々、本日お集まりの皆様、今日は、こうして久しぶりに久原会総会を再開出来たことは、皆様も同様な思いでしょう、感慨ぶかいものがあります。
過去3年余続いたコロナパンデミックのもと、社会全体さまざまな変化を受けて参りました。私など、基礎疾患があり、しかも超高齢ですので目に見えないコロナに怯える毎日を過ごしました。おかげでこうして皆様に再会できる幸せを噛み締めております。正直なところ、生き続けることができて良かったという思いです。当院でもコロナに対する医療に従事して来られた皆様のご尽力に対し心から敬意を表します。
ところで私の会長歴は、平成16年頃、米倉先生が院長になられて間もなく就任依頼を受けました。だからざっと20年間ではないかとおもいます。その間、前院長江崎先生の時代に国病久原会のホームページ開設の機会を与えていただきました。その意図は、当会の存在を見える化といいますか、新旧職員間の親睦交流という足跡が残るように工夫したつもりです。
その甲斐があってか、現院長さんが院長就任まもなく、「昔の諸先輩が何を考え、どうやって病院を動かしてきたのか、OB達が残してくれた、久原会が編集した記録を読んで参考にしています」と言われました。これは大変嬉しい言葉です。国病久原会は単に新旧職員の親睦交流というだけでなく、時間を超えて、お互いの繋がりという、意味のある存在理由があるのだと思いました。これは当院の伝統をまもる医療文化の一つとも言えるでしょう。
新会長を米倉正人先生にバトンタッチいたします。先生は瑞宝中綬章の叙勲に浴され、本日は皇居にて天皇のお言葉を受けられたと思います。誠におめでとうございます。先生は当院研修医から、院長にまで栄達され、一貫して当院の発展に尽くして来られた方です。新会長さんとともに、皆様のご協力を得て、ますます当会の発展を期待いたします。併せてまた皆様のご多幸を祈念し、わたくしの退任の挨拶とさせていただきます。
末尾ではありますが、先日、OBである岩﨑 榮先生がご逝去されました、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。追悼のため、有志の方々とともに弔意を別に述べる機会を与えてください。
最後に、これまで国病久原会のOB連絡会で私を支えて頂いた前副会長の出口八重子様、その他、浦部 豊さん、森内昭子さん、吉田典子さん、それに当会の運営にご尽力されている当院管理長増田 賢武様及び国病久原会事務局の皆様に感謝いたしております。